関津城遺跡(滋賀県大津市)の現地説明会に行ってきました。いや、もう噂には聞いてたけど凄いわ。ホンマ凄いわ。なにこの遺跡。相谷熊原のあの無数のピット見た時も「なんやこの縄文テーマパーク」って思ったけどこれはさながら関津キャッスルランドか。
関津城…宇野氏の城で、戦国終末期頃の城郭…らしい。結構大規模な城郭らしいけど詳しい事は一切不明で、そもそも戦国期の城郭を本発掘調査した事例自体が珍しいらしい。…まぁ学術調査じゃなく今回も工事に伴う調査だけど。
で、だ。いやもうほんとに最初の郭(第1調査区)からすっごいの。何この充実っぷり。関津みたいな交通の要衝にある城ってホントに砦的な要素が強くて、がっつり臨戦態勢、みたいな城かと思いきや…館的な要素が沢山。近世城郭になる前は建物にしても掘立柱とかがほとんどなのに、礎石建物が建ち並んでる。郭の入口には櫓門、門柱は礎石とその前後に掘立の副柱(だっけ?)がある構造。礎石と、郭の内側の柱穴しか出てないけれど、外側にも同じ柱穴がある筈。…これはいい写真が撮れなかったから写真は無し。
これも第1調査区、門跡の脇にある櫓台に上る石段。どうも広い石段が先に作られてて、跡から幅の狭いものが作り直されたらしい。石が焼けているのでここでは火災があった模様。この調査区に限らないけれど、上部からの土砂の崩落・堆積が1mくらいあって、それでも結構高い櫓台って事は、機能してた当時にはこの土塁の高さは5mくらいあったんじゃないか…という話。今でも2m以上残ってる。ものッ凄い堅牢な構え。
写真は無いけれど、上の郭(第2調査区)の水を排水する目的の暗渠もキレイに残ってた。屋根付きの滝みたいな…っていうと語弊があるけど、ホントにパイプ埋めたら現代の排水溝と変わらないんじゃないかってくらいに溝と高低差を落とす穴とが残ってる。うーん…ウォータースライダーみたいな構造? 上手く説明出来る言葉が思いつかないけど。田んぼの高い所から低い所に落とすような、あれよりももっと手が込んでる。
続いて第2調査区。坑の開いてる所が切岸。ここも崩れてはいるけれど、それでもかなりの高さがある。切り岸に開いてる穴は城が廃絶した跡で、地元の人が貯蔵穴として使っていたもので、関津城に関するものではないとのこと。
第2調査区からは建物跡が3つと井戸が見つかってるんだけど、まずこの井戸が凄い。よく掘ったなー…と思わず思ってしまう深さ。実に2mは残ってるんじゃないだろうか。のぞき込むと底には水が。ここ、結構湧水があるらしい。とっても立派な井戸です。素掘り。
これが建物1、床面に礫が敷かれてる建物。礫が敷かれているということで、どうも倉庫だったらしい(何が入っていたかは不明)。
それから建物2、掘りこんである所にはどうも甕が埋まっていたらしい(破片が出てる)ということで、液体を貯蔵していた場所、油か酒か…この横に井戸と、地面が焼けた部分があるのでどうも炊事に関係があったのではないか? という話。でもこの地面の焼け方も…なんか焼けた物がどろっと流れたような跡もあるし…竈というよりは炉っぽい焼け方だそうで。
写真はないけど更に横には貴重品を納めたと思しき建物跡が。これは礎石もばっちり残ってる。今回展示してる遺物はこの建物3からの出土品がほとんど。
輸入陶磁(青花・白磁・天目など)や亀形銅製品(水滴の一部?)などの他にこの金具、屏風の押さえ金具らしい。中央が一番残りが良いけれど、五三桐が全部で5つ彫られてます。写真では見にくかったけど、実物を目の前10cmとかにして見るとちゃんと全部見える。…老眼の人は怪しかったようだが。
全体的に煤が付着ということで、この郭も焼けてる…のかなぁ…。ただ、それが攻められた時の炎なのか、自分で火を放ったのかは不明。
それにしても天目があるからお茶を嗜んでた訳で、しかも屏風。どうもこの建物3は貴重品倉庫で、それも普段使わない、来客用の貴重品(今でもお客さんにしか使わないカップとかがあるような感覚かな)を入れておいた倉庫のような。
更に1段上がって第2調査区その2。ここからさっきの第2調査区を見下ろすとこんな感じ。切り岸の高さを見よ…! 高い…! すごく高いよ! これでも崩れてるから当時よりも随分なだらかになっているらしい。この切り岸の上の郭は現在調査中。秋にもっかい現説があるらしいので今回行けなかった人は是非、秋に。
で、今回の目玉である建物4、地覆石を置いた土塀(内側は板張り)の米倉です。何が目玉って、『地覆石を基礎にした』『土塀の(内側は板張り)』『米倉(という用途)』が解るという…全国初。土塀の下の所に溝を掘って、石の平な面を上にしてぐるっと敷いたもので、その上に土塀を積み上げたらしい。切り岸側だけはちょっと違う構造になっているらしい。で、焼け落ちてる訳なんだけど、焼けてすぐに埋めてしまったために今まで良い状態でのこってたそうな。
どれくらい良い状態かって、左の写真で1カ所ぽつっと黒い○があるのが解るかと思うんだけど、右の写真はそこのアップ。これが一定間隔で土蔵に半分被さった状態で並んでる。これ、焼けた柱の跡。…びっくりするくらいキレイに残ってるんだよ! なんで半分土壁にめり込んでるか(全部土壁に入ってないか)というと、内側に板を張っていたからで、ここからは同じく焼けて炭化した柱の部材も出てきてます。それも結構な量(下の写真の右)。
壁の部材も沢山出土していて、これは土壁の中に挟まれていた部材(竹?)の跡がくっきり残っているもの(左)。火災にあった事で、土器と同じように安定物質になったために今まで残っていた土蔵の壁です。普通に倒壊しただけだと土は土のまま、自然に還ってしまって何も残らないので。
これが土蔵の構造を示す遺物。こっからは土蔵の用途を示す遺物の写真を貼り付けてこのgdgdと長い記事を閉めようと思います。
土蔵のほぼ中央部分。炭化した部材がまだ残っているのですが、この辺りから大量の米が出土したそうで、一つ所に固まっているのでどうやら俵か何かに入っていたものがそのまま焼けたのではないかということでした。この炭化米も、塊のままのもの、粒状のもの…結構沢山出てました。
米倉が貴重品倉庫より高い所(高い郭)にあったというのが…ひょっとして来客用の調度品よりも米の方が大事だったのかなぁ…という事を考えてみたり。
とにかく炎天下で帰る頃には頭がんがんしてたけどもすっごい楽しい現場でした。
そういえばお一人、山城MAPに参加されてる方をお見かけしたのだけれど…あ、ひょっとしなくても気づかれてない…? まぁアレに行く時より化粧薄いですけども。仕事にしては濃かったけど(だって外に出るから厚塗り)。つけまの有無と巻きと盛りの有無が私の仕事とプライベートのボーダーです! とアピってみた。…つけまの有無って大きいよね…。
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