2009年8月21日金曜日

ぶらっと毛利と両川~その4~

 昨日力尽きて寝てしまったので続き。
 最後の目的地は三原。新幹線も停まるけれど、本数は少ないので基本的に鈍行。広島から結構頻繁に出てる山陽本線もしくは海沿いがいいなら呉線で。呉線と山陽本線は三原でまた合流するからどっち乗っても問題無し。
 で、広島城からのタクシーの中で次にどこへ? と聞かれて『三原へ』と答えたら…絶句されました。なんもないで! 的な。…なんもなくないもん…石垣あるもん…。
 というわけで三原城です。残っているのは天守台(の一部)と櫓跡のみ。で、こっちは天守台です。JR三原駅の構内からしか上れないので、裏を返せば駅が開いている時間なら朝でも夜でもOKということで。…ただ、ライトアップとかはなさそうだ。
 山陽本線(当時国鉄)が何を思ったか城の本丸を突っ切るコースで作られたがために石垣とかも大半が破壊され…今は線路の下敷きに。…何でわざわざこのルートで直通させたんだろう旧国鉄。ちょっとずらすとか出来なかったんだろうか。いや、確かに堅牢広大な城域(かつ平城というか水城)で避けるのは無理にしてもさ…。
 そんな訳で天守台の上を削るようにして山陽本線(在来線)と山陽新幹線の高架が突っ切っています。
 三原は小早川家を次いだ隆景(毛利元就三男)が新高山城の次に本拠とすべく築城を開始した城。秀吉政権下で五大老(本家筋の輝元と同列の扱い)に任じられ、筑前に加増されて博多へ移ってから(この筑前加増や五大老就任は秀吉が隆景を毛利本家から切り離して自分の身内に引き込もうとしたからとも)も、隠居先としてこの城は残し、実際隠居してからも改築に次ぐ改築で一大要塞になっていったらしい。…隠居先なのに。隆景は東からの脅威の防波堤になるべく堅固な城を造ったんだろうけど、結局関ヶ原で本家はもっと西へ追いやられてしまった訳で…折角の要塞も使われることなく。
 これが日本最大という天守台。…とはいえ。この時代には天守はまだ築かれてない訳で、仙台城とかにある『天守を築く積もりが多少なりともあって』作られた天守台はそら『天守台』で良いかもしれんけど、天守を作るつもりじゃなかった所は果たして天守台なのかどうかと。まぁそれは築城当時の話で、隆景存命中には各地で天守が流行ってた(もちろん財政的に可能な所だけとはいえ)から、拠点に必要と思って天守台を整備した可能性はあるけれど。そういえばこの天守の魁は安土城らしいけれども、安土の天守は『天主』であって、天守の用途である戦時の拠点という要素は持ち合わせてないから…ある意味別枠なんじゃないかな、とも。
 三原駅西口には小さい公園があり、小早川隆景像があります。夕方に来るからいっつも逆行なんだよな…。
 もう一カ所残っている櫓の方へは東口(駅の表側)から出て左斜め前方へ。駅からもビルの間にちらっと見えるくらい。なんというか、観光地というよりも普通の駅に近いかな…ちょっと大きい普通の駅。

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