2010年1月30日土曜日

50回忌

 今日は父方の曾祖母の50回忌でした。正直、50回忌なんて故人が存命中に会ったことある人どんなけ少ないねん、って話ですよ。しかも父方の曾祖母は色々あって、祖父との間に下手したら1世代挟まるくらいの年齢差があるので…ますます遠い人。遠縁だけど血のつながりは直接はないしね。母方の曾祖母はまだ私が幼い頃には存命中だったから、50回忌まで…は多分私もまだ生きてるんじゃないかな、多分。そんなんだから100回忌もやれというお寺の方針は正直理解不能。え、お布施目当て? とか思ってしまう。何のための四十九日かと。四十九日済んだらみんな一緒に「ご先祖様」になるんじゃないの? なのに100年先まで個別に弔うの? なんか矛盾してるんじゃないのかなぁ…。とか。うん、不信心ですまんけど。
 お坊さんの説法もなぁ…部分的には理解出来るけど、ちょっと違うやん、と思うところもあるし…特に今日の話がそうだっただけかもしれんが。結局、理解出来る部分に宗派とか、宗教の差ってあんまりないんじゃないかと。仏教のここは理解できるけどここは無理、とか、キリスト教のここは理解できるけどここは無理、とか。…イスラム教とかはよく解らないです。特に勉強もしてないし…身近でもなかったので。
 あ、でも阿弥陀経を真面目に文字追い掛けてたら、とりあえず一生懸命念仏唱えなさい、とか極楽ってこんなにいい所! ってのが猛烈アピールされてるのはよく解った。…真宗だからね。布教する人の熱意というか、宗教への勧誘という意味では歴史的にはキリスト教が最強だけど、宗教内での信者と神の立ち位置という意味では、キリスト教はひたすら信者が神に向かってお願いし続ける(で、気が向いたら神様は助けてくれる)けど、仏教はひたすら神(仏)の方から信者に向かって庇護とかをくれるという…真逆だなぁ…と阿弥陀経見てて思った次第。宗派によって違うんだろうけどもね。
 というか、宗教って結局精神的なよりどころって意味が強いんだろうなぁ…現実世界で、自力(完全自力のみじゃなく、自力が多少でも及ぶ範囲)では改善が見込めない部分を『宗教』で穴埋めしてるというか。たとえば古代中世では病気とかもその『人間力ではどうしようもない部分』だから宗教(日本だったら加持祈祷とか)の範疇だったけど、今は医者の領分だからそこから宗教の立ち位置は減ってる訳で。そういう精神世界での支えとかある意味『他力本願』の部分(悪い意味ではなく)が宗教なんだろうなぁ…と思う。そう考えると、日本人が宗教に対して寛容だったのも、今の日本人が無宗教って言われる位寛容なのも、結局日本という気候にも恵まれて結構安定して食料が手に入って、平和な時代が長かった島国…という事で、自分の力ではどうしようもない、切実な問題ってのが他の国に比べて少なかったんじゃないかな、と。もちろん、諸外国とは根っこが違うから、同じ問題があったとも限らないんだけど。宗教に頼って国を支えるほどの必要性があまりなかったというか。それこそ東大寺とかあの時代くらいじゃないかな…。食料が無かったり、干ばつや洪水で酷い自然を目の当たりにしたらそこには神様の存在が出てくるのかも知れんけど、まれにそういう困難な自然がある所(海とか山とか)にはそれぞれ土着の信仰が産まれてるし。結局それが日本全国共通のものじゃなかったからあっちこっちに個別の宗教→信仰する神様が隣の地域と違ってもキニシナイ。だってそれが普通だから→余所からきた神様もそっちで信仰されてた神様なんでしょ? 無問題。…くらいのゆる~い認識だったんじゃないかな、と。
 結局よく解らんことをまた書いてしまった。

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