2010年3月20日土曜日

佐和山城遺跡現地説明会

さて、昨年7月に引き続いて佐和山城遺跡の現地説明会に行ってきました。彦根に限らずこの日は西日本全域で超良い天気。七分丈でも黒を着ているだけでじりじりと焼かれるような暑さの日でした。7月は雨だったから晴れて良かったよホント。
 で、早速写真は第1調査区です。…こなれたようなでも手抜きな画像補整ですいませんよ…。A/B/Cはそれぞれ時期の差です。溝Aと溝Bは同時期のものではなく、道Bと井戸Cは同時期ではなく、溝Bと道Bは同時期…という意味で見て下さい。溝Aは溝Bよりも早い時期のもので、その後、溝Aが堆積物などで浅くなった所で埋め戻して新たに溝Bを掘り、道Bを溝Aの上に重なるように造成した…とのこと。だから道Bの横幅は片方は溝Bまでだけれど(見えている部分)、右端は溝Aの上を通って右側の畑地の所まで伸びている筈(未確認)。また、井戸はこの道とも溝とも同時期のものではない(そりゃ排水路に重ねて井戸は掘らんよ)が、これらの遺構はたった数十年の間に前後して掘られたもの、かつ堆積している土砂が粘土質ということで、溝というよりは淵のような…水が流れるというよりも溜まった状態のじめじめした水路だった模様。現状でも、数日前に降った雨の水が写真の状態。とても水はけが悪い場所。そんなんだから溝が堆積物で埋まるのも早くて、短期間に掘り直しが行われた模様。この道だけど、右手の今は舗装されてる道との関係性はまだ不明とのこと。傾斜とかが現存の道とは異なるから、同時期に両方とも存在したのか、有る一定時期に現存の道に大規模に造成し直されたのかも解らないとのこと。
今回は第1調査区、第2調査区ともにトレンチ1本ずつなので、元々掘り返した範囲も狭くて色々確定出来ない事が多い様子…。
 続いて第2調査区。ホントは逆から撮った写真があればここからここまでが新聞記事にあった最大22mの内堀範囲! って書けたんだけど、取り忘れたのでこっちからのみ。この写真の手前側に用水路(現況)と土塁があります。内堀って土塁と隣接してないと意味がないから(防御的な意味で)土塁の際まで内堀があったとすると、このトレンチで堀の外側(町側)の端が出たのでその端っこから土塁までの距離が約22m=推定される内堀の最大幅、という意味での22mです。この写真にある堀は50cmくらいの深さしかないけれど、既に上部は削平されていてない事を思うと推定される深さは約2m(現況の地表面から)、更にセットで土塁があると見越して、土塁の高さは現存でも1m程度のものがあって、本来は3m近くあったということだから、合わせて5mの高低差+22mの幅…というとかなりの規模だったことが想像できます。
 で、今回の足下の水がやけに赤茶けているのは鉄分のせいだそうです。ただ、第1調査区から製鉄業に関連する遺物(鞴の羽口)が出ていて、第2調査区からは鋳造に関する遺物が出てて、更にこの2つの調査区全域から鉄滓が沢山出土している…って事を思うと、元々鉄成分を多く含む土壌だったのか、一連の製鉄業に伴う鉄滓が大量に土中投棄されて、400年の間にその鉄分がしみ出してこんな酸化鉄を多く含む土壌になったのか…どっちなんだろう。7月の調査区は雨の日ってこともあって、赤茶けた色は…いや、晴れた日にも見たけど特に赤茶けてた気はしないからあの辺はそんな土中に鉄分はない筈。滋賀県って元々花崗岩質(琵琶湖をぐるっと囲む山)と石灰質(琵琶湖の近く)があってその境目に接触交代鉱床とやらで鉄が産まれやすい土地らしく、それを当て込んで古代から製鉄が盛んに行われていた地域でもあるから、土壌が鉄分を含んでるってのも…無い話ではないけど、こんな酸化鉄を大量に含むよーな土壌・地下水の所に果たして飲料水に使うような井戸を掘るか? とも思うし。鉄滓の鉄分ってどの程度(量・時間)でしみ出して、土壌に影響を与えるもんなんだろう…400年あったら十分、鉄滓が原因でも有り得そうなんだけど…。

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