2010年3月3日水曜日

ちょっと衝撃的だった

 過去の図録の整理をしていて、たまたま数年前に京都文化博物館でやってたマヤ文明展の図録をぱらぱらと見ていた時のこと。マヤの土偶って…スゴいな! 四肢稼働すんねんで!! だから足とか腕とかが中空なのか…。という所に無駄に興奮。多分日本の土偶とは用途違うんだろうなぁ…当たり前だけど。その中でも衝撃的だった土偶が…首吊りの土偶。なんつーか、描写がスゴく細かい。縊死って舌が飛び出したりすると聞くけれど、この土偶も舌をだらんと口からはみ出させてて…なんてリアルな(や、リアル見た事ないけど)。細かい描写してる所には何か意味があるんだろうけど、一体この土偶が何に使われたのか…。
 メソアメリカって言うと、どことなく『生贄としての人間』ってイメージがついて回るんだけど…私だけかな…。心臓を捧げる石像とかがあるからやってた事は事実なんだろうけども、たとえば中東では生贄は動物だし、東洋では動物が神の使いになってたりもするからもっと見かけない気がする。日本でも生き物を捧げるってあんまり…ないよね? 土偶とか埴輪とか、そういう人形で代用してるイメージ。実際に雨乞いで馬を捧げる事もあったんだろうけど、馬って超貴重品だから代わりに使われた土馬が沢山出てくる訳だし。
 農耕主体の民族(国?)は結局人が多ければ多いほど収穫が増える、人間1人辺りの生産量と消費量はローリスクローリターン(だからこそ絶対数を増やしてリターンを増やす)というか…狩猟主体民族(国?)だと人が多くても収穫は純増するとは限らない一方で、消費は純増するから人を淘汰する事にあまり抵抗がない(生存という意味で)のかなーとか。陵墓への殉死者とかいう面も含めてそんな気がする。古代中国じゃ殉死者は権力の象徴みたいに、一つの王墓に何人もの遺体があるけど、日本はその点、全部埴輪だし。
 じゃあメソアメリカってそういう、狩猟主体の非農耕型社会か? って思うと…そうでもない気がする。農作地の遺構もあったように思うし、そんなに大人数が生きにくい環境…にも思えないんだけど…敢えて過酷な精神生活+実生活を選んでるよーな…そんな感じ。あ、あくまで現代人の感覚で、だけどもね! 何が過酷でそうでないかなんて、当事者間で相異があるもんだしね。

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